これまで、アラノンの強迫観念(obsession)、不安 (anxiety)、怒り (anger)にクローズアップし、アルコホリズムが私たちに与えている影響について考えてきました。
これらの症状は私たちに共通の問題であり、それゆえ共に向き合い、共に解決を探し求めることができる。数年前、私はようやくその準備が整ったように感じました。
ところがそのとき。私の目は、見ることができなかったのです。
否認とは「事実として認めないこと」。一般的には、刑事事件などにおける容疑を認めない否認、また受け入れがたい現実を認識しようとしない、防衛機制としての否認が知られています。
アラノンの否認は後者に属します。
これまで見てきたように、相乗的に膨れ上がる強迫観念と不安は私たちの心を押し潰し、報われない怒りは表すことも許されず、行き場を失いました。
このような耐えがたい状況に対処する術も、立ち向かう力も持たないとき、私たちの心は閉じ、実際に起こっていることを見ないようにする、あるいはないものと偽ることで自らを守ろうとします。
言わば否認は私たちを保護するバリアのようなものであり、誰の中でも起こりうる自然な心の働きです。平安を得るための束の間の逃避であれば、それほど問題はありません。
問題となるのは、日常的かつ長期的にアルコホリズムと共に生きる私たちが、「受け入れがたい感情」が生じる度に否認を利用するようになることです。
その結果、私たちの感情は言動に結びつかないどころか、自分自身にも認識されず、自己や他者とつながりを持つことができなくなります。
私が夫と出会い、当時住んでいたヨーロッパから母に電話で初めてそのことを伝えたとき、母は彼のことを激しく拒絶しました。
その頃の私たちの立場や生活を考えれば、まともな反応であったでしょう。
ところが娘が生まれ、夫がソーバーになり、家族で日本で暮らすようになっても、夫に対する母の態度は変わりません。私はそのことで母を強く恨むようになりました。
母親たるもの娘の選択を尊重し、応援するべきである。そう母を強く非難する反面で、夫に対する母からのどんな意見にも飛び上がらんばかりに過剰に反応し、防御的に突っぱねました。
母は娘を心配していたに過ぎません。なぜ母の心配が私をここまで脅かしたのか。私が抱える夫に対する批判と拒絶、悲しみ、罪の意識、生活が破綻しているという事実、自分の人生は失敗だという恥の感覚。ひたすらに隠し続けてきた私の嘘が、母の表明によって暴かれるかのように感じたからです。
実際には、唯一告げてくれたのが母であっただけで、この状況は近しい人々の目には明らかであったと言えます。私の心にだけ、隠されていたのです。
こうして長いこと私を守ってきた否認は、私が真実に目を向け、助けを求め、変わることを徹底的に阻む障壁となりました。
いよいよ次回、アルコホリズムの影響として挙げた最後の症状である罪の意識(feelings of guilt)について考えます。
