前回の記事の終わりに「信じるということについて少し考えてみたい」などと言った途端、筆が進まなくなりました。またもや身の丈に合わないことをしようとしていた模様。話を自分サイズへ縮小して仕切り直しです。
その記事の中で、ハイヤーパワーの概念を問われた私の頭が空白であった話を書きました。余談ですが、我が家では数年前からオカメインコを飼っています。子どもにねだられて渋々飼い始めたものの、母がハマるというよくあるパターンですが、私はこの鳥に深く魅せられてしまいました。オカメインコの概念を問われたならば、私は躊躇なくそれを言葉にすることができます。そしてそれは、私が鳥と暮らす生活を実際に体験しているからに他なりません。神と鳥ではあまりにもスケールが違いますが・・・私がハイヤーパワーとの交流を体験していないということはわかります。
そのもう一つ前の記事では、came to believe(信じるようになった)とは「信じない」から「信じる」への変化だと書きました。この変化を起こすために何が必要なのでしょうか?少し前、何気なしにステップ2の話をしていたとき、夫が唐突にこんなことを聞いてきました。
「Why did we come to believe?(俺たちはなぜ信じるようになった?)」
自信なく口をモゴモゴしていると、夫はニヤニヤしながらこう答えました。
「Because we had to!(そうする他なかったから!)」
ジョークのような真実です。この変化を起こすために、私は何かしら信じるに値する根拠が必要だと考え、それを自分が理解できるような箱に収めようとしてきました。AAのビッグブックに「私たち不可知論者は」という章があります。神の存在を積極的に否定したことがない私は、この章を他人事のように読んでいました。それどころか、自分はいわゆる「目に見えない事柄」に対して割とオープンな方だと思っていました。私が懸命に頭で理解しようとしてきたこの「考え」そのものが、この章が繰り返し捨てるように要請する「偏見」であるとは考えにも及ばなかったのです。
これまでの自己流のやり方で完全に行き詰ったという現実と、粗末な偏見を捨てたこと。この二つが揃ったとき、私にも変化が起こりました。それともう一つ。「信じるということ」に関する勘違いも、私の偏見を生み出した一つの要因でありました。そのことが『心の家路』の以下の記事に簡潔にまとめられています。シンプルすぎて凹みますね。それでもこれでようやく、次のステップに進むことができそうです。