私には、一度アラノンにつながるも留まり続けることができず、自ら離れてしまった経験があります。最初につながったのは今から16年前。当時私たちはスイスのバーゼルという街に住んでいました。英語のグループはAAとアラノン共にバーゼルには一つしかなく、それぞれのミーティングが同じ施設内で開かれていました。そのAAグループは夫のホームグループであったので、初日は彼が会場まで案内してくれました。とは言うものの、夫は再飲酒のさなか。仲間と顔を合わせるのを避けるように、そそくさと帰っていきました。
それから、季節が一つか二つ変わるくらいは通ったでしょうか。どことなく影があるS、優しく上品なМ、ソーバーのアルコホーリクG、そして私。参加者はだいたいこの4人でした。私はいつでも暖かく迎えられ、Sは無期限でHope for Todayを貸してくれました。あるとき「あなたたちにもスポンサーがいて、ステップワークをしているの?」と聞くと、三人は少し困惑した表情を浮かべ、揃って首を横に振りました。徐々に私はこのアラノンの部屋を「行き止まり」だと感じるようになりました。アラノンの本には、アラノンに来る前の私たちはどうであったか、アラノンに来てどうなったかというメンバーの話がたくさん載っています。けれどそのビフォーとアフターの間には何があるの???4以降のステップは曲芸に思えました。娘がお腹にいた私は、出産を言い訳にミーティングに行かなくなりました。
アラノンを去った要因は、当然私の方にもあります。そもそも自分の問題が分かっていない上に、的外れなものを求めていました。その証拠に、ずいぶん後になってSに返すまで、Hope for Todayは本棚で眠ったままでした。Sとは後日談があります。11年の時を経て再びアラノンにつながり、東京の英語ミーティングに参加した私は、そこにSがいたことを知りました。数年間東京に駐在し、私と入れ違いで日本を発った彼は、人望厚くバリバリスポンサーをやっていました。私の認知はまったく当てになりませんね。あの頃の私には、見るべきものを見る目も、聞くべきことを聞く耳もなかったのかも知れません。もちろんSがアラノンに留まり、成長し続けている証でもありましょう。
また、ヨーロッパの小都市の英語ミーティングは駐在員が多いために人の入れ替わりが激しく、安定したミーティングを提供することが難しいという事情もあります。一度Sと地元のドイツ語ミーティングに行ったときは、その閉鎖的な雰囲気に却って疎外感を抱いて会場を後にしたことを覚えています。どのグループにもそれぞれの課題があります。
それでもやはり、私は考えます。あのとき、誰かがはっきりと「解決はある」と言ったとしたら、私はどう思っただろうか。あのとき私が必要としていたものを、今の私はどのように発信することができるのか。ステップ2は家族の解決であります。次回、ステップ2の文言に沿って私たちの解決について考えます。