アラノンに来て間もない頃に参加していた英語のミーティングで、ある時こんなトピックが持ち上がりました。
“Martyrdom(マータダム)”
初めて耳にする単語でした。日常会話で頻繁に使われる言葉ではなさそうだけど、メンバーたちは一様に「うんうん、これは自分のことだ」という顔で頷いています。それはアラノンにおいてどんな意味を持つのだろう?その時から、この言葉について考えてみたいと思うようになりました。
元来の意味では、 martyrdom は「宗教上の信仰を貫き、そのために迫害を受けて死ぬこと」つまり「殉教」を表します。また、政治や社会活動などにおいて人々が自らの信念のために困難な状況に立ち向かい、自分を犠牲にする姿を指すこともあります。
一方でアラノンの文脈においては、この言葉を「家族の在り方」のメタファーとして用いることが多いようです。犠牲、献身、苦しみといった要素や、それが自主的であるという点は確かに両者に共通します。しかし当然のことながら、その動機はあまりにも違うものです。
さらに、martyrdom には「同情を得るために苦しいふりをすること、または大袈裟に苦しんで見せること」という比喩的な意味もあります。アラノンでも多くはこうしたシニカルな意味合いで言及されるのだと思います。
夫曰くスコットランドでは、若者などがしけた顔をしていると、そこら辺のおじさんがすかさず「誰かこいつに十字架を担がせてやれ」とか「君より苦しんだのはキリスト様ぐらいだよ」とか言い出すらしいです。何とも口軽な物言いですが、キリスト教の思想が大衆の生活に深く結びついていることがわかりますね。
そのように自己憐憫を揶揄する際に使われることが多いものの、家族のマータダムは決してそれだけでなく、より本来的な意味においても関連性があると考えています。
以前、アラノンの「三つのC」に関する記事を書きました。それとは別に「Mothering(過剰な保護)・Managing(管理)・Manipulation(操作)・ Martyrdom(殉教)」のそれぞれの頭文字であるMをとった「四つのM」と呼ばれるものがあります。これらは家族に多く認められる行動であり、通常「このようなふるまいを止めなければいけない」といった文脈で語られます。Mothering・Managing・Manipulation については分かるとしても、martyrdom を止めるとはどういうことでしょうか?
How Al-Anon Works の連載は、ステップ3のところまで来ました。この連載を読んでくれているご家族の方にお聞きしてみたいです。これまでことアルコホリズムに関し、どのような信念を持ってきましたか?
「父と母とは違うことを証明するために、私はアルコホリズムの中でも誰の力も借りずに立派に生きてみせる」
これが私の信念でした。実際には私たちの生活はとうに破綻していました。けれどそれを母の前で認めるくらいなら死んだ方がまし。私は本気でそう思っていたのです。そして現実から目を逸らして幻想の中で生きることは、死んでいるに等しいものでした。
私たちの信念が何であれ、それが無力を認め、助けを求めることを阻むものである限り、家族の殉死が報われることはないでしょう。たとえそれで幾何かの面目やプライドが守られたとしても、その最期はとてもさみしいものであると想像します。
私たちの強情な信念が粉々に打ち砕かれたとき、私たちは自分より偉大な力に手を伸ばします。そうして私たちが本当の意味で生きるようになること。それこそが「martyrdom を止める」ということなのかも知れません。
