“YOU HAVE NO EMPATHY.”
エンパシーという言葉を耳にしたことはありますか?検索してみると色々な記事がヒットするし、エンパシーに関する本なども出版されているようです。それなりに注目されている言葉なのだと想像します。私はというと、ほとんど気に留めたこともありませんでした。「それが自分にない」と指摘されるまでは。
ブリタニカ百科事典の定義によれば、エンパシーは「the ability to imagine oneself in another’s place and understand the other’s feelings, desires, ideas, and actions(他者の立場に立って想像し、他者の感情、欲求、考え、行動を理解する能力)」のことを指します。
言葉の意味をあらためて考えてみると、アクティブアルコホリズムの渦中にいるアルコホーリクと家族が互いにエンパシーを行使するのはほとんど不可能であると考えます。それではアルコホーリクが酒を止めた、あるいはアルコホーリクと家族が物理的に離れた場合はどうでしょうか。
「一家に一人、アルコホーリクを」とは、義母の小言がうるさいときに義父が冗談で掲げていた標語です。「気に入らないことは全部アルコホーリクのせいにできるから」という皮肉でした。プログラムがあるからこそのジョークでもあります。
それがなかった私の原家族では、母の負の感情を父がすべて吸い取っていました。それに気がついたのは、父の亡き後のことです。
一方の私には長いこと、ある感覚がありました。「ただいま」と言って玄関に足を踏み入れると、顔の前にすうっと能面が降りてくる。すると良くも悪くも何も感じなくなります。夫がソーバーになり、私がプログラムにつながった後もしばらくこの現象は続きました。氷のように冷たいこの感覚は、今でも時折現れます。
アルコホーリクと家族が共にソブライエティを生きるとき、相手へのエンパシーは不可欠になります。けれど同時になかなか持てないものでもあります。実を言うと、其の一と其のニの台詞はもう長いこと聞いていないのです。対して今回のフレーズが落とされたのは・・・ごく最近のこと。そのとき夫は「君、アラノンやってるんだよね」とも言いました。痛烈な嫌味ですが、お互いにプログラムをやっているから話せることでもあります。そしてこうも言いました。「君は自分のスポンシーたちにはエンパシーがあるじゃん」と。「確かににそうだな」と思いました。前回の記事で書いた親密さにも通じるものがあります。関係性を持つことに私が特に難しさを感じるのは、父と夫という、二人のアルコホーリクなのです。
私のように防御が強くても、私の父と母のように互いの境界線が曖昧でも、健康的な関係性を築くことはできません。嵐が去って崩壊した家の前に立つ家族には、やるべきことがたくさんあります。すでにアルコホーリクと離れていたとしても同様です。AA草創期のアルコホーリクの妻たちが認めたのも同じ問題であり、それが家族もこの霊的なプログラムを始めるようになったきっかけでした。
これでひとまず「耐えがたき台詞シリーズ」は終わり、また何か降ってきたら随時追加していこうと思います。不快な言葉などもちろん歓迎したくはないのですが、唯一これだけが私の背中を押すようです。